2014年04月15日

なぜ、運天港に源為朝上陸の碑が建っているのか?

運天港を見下ろす高台に建つ源為朝上陸碑
りっぱな台座が目をひく源為朝上陸碑。

源為朝が琉球に渡来したという伝説があります。もちろん、為朝の渡来は伝説にすぎないのですが、なぜ、運天港に為朝上陸碑が建っているのでしょう?

この碑は「源為朝公上陸之趾」と題字があり、題字の右側には、「元帥伯爵東郷平八郎書」と刻まれています。
さらに、台座を見ると、「国頭郡教育部会発起」とあります。

台座には国頭郡教育部会と刻まれている
台座に刻まれた国頭郡教育部会が建立した。

国頭郡とは沖縄県北部です。その北部の教育部会がこの碑を建てています。大正11年(1922年)の建立です。為朝が運を天にまかせて運天港に漂着し、為朝の子が初代琉球の王になったとの伝説が基になっているようです。運を天にまかせて漂着したので、運天港と名付けられた、というのは後から付け加えたものです。

国頭郡教育部会は、何のためにこの碑を建てたのでしょう?国頭郡教育部会は、戦前の沖縄で忠君愛国の思想を沖縄の人々に浸透させる目的で、社会教育活動をおこなっていました。

沖縄県民は皇民であるという日琉同祖論の権威付けのために、当時の英雄だった東郷平八郎に題字を依頼したと思われます。

沖縄が日本の一部であるという主張は、戦後の日本への復帰運動へと発展していきますが、近代沖縄にとって、現実的な選択肢はこれ以外にありませんでした。琉球独立論はありましたが、現実的ではなかったのです。支配される国だった沖縄の側から、積極的に祖国への復帰をめざして、為朝上陸碑は建てられたのでした。

この碑の石材は、1874年に国頭沖で座礁したイギリス船のバラスト(船底の重り)が使われているとされ、歴史を物語る石材でもあります。

為朝の手形が残る洞窟
ティラガマと呼ばれる洞窟内に、為朝の手形が残っている。

上陸碑の近くには、為朝の指の跡が付いている手形があります。これも、もちろん本物であるはずがなく、鍾乳石の窪みなのですが、為朝が一時、身を潜めていた洞窟とされています。洞窟は運天地区の人々の拝所となっています。


参考:東郷平八郎と為朝伝説(1)〜(3): 目からウロコの琉球・沖縄史

関連記事:運天集落と古墓(Cコース)を歩いてみました - 今帰仁城跡と周辺遺跡


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posted by gusukutarou at 12:00| Comment(0) | 周辺史跡を歩く | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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