2011年08月23日

伊是名島で無料サマースクール、講師は琉大学生

ことしで2回目となる中学3年生を対象とした「2011年度サマースクール(無料塾)」(主催・伊是名村教育委員会、協力・村商工会)が17日、村産業支援センターで始まった。24日まで。琉球大学の学生3人が講師となり、受験対策を進める。

 サマースクールは昨年、村商工会やコープおきなわなどによる特産品開発の中から生まれた企画。特産品の売り上げの一部を同村の子どもたちのための教育支援金として積み立て、講師費用などに充てる。
 生徒たちは期間中、午前中は学校で部活などを行い、午後はサマースクールで勉強する。また、伊平屋島の中学3年生も毎日、渡し舟を使い、サマースクールへ参加する。

 17日に開かれた開講式では、琉球大学の高良倉吉教授が尚円王の銅像について講話。高良教授は「一つのものを作る、成し遂げるには、たくさんの人が意見やアイデアなどを出し、何度も話し合いを繰り返して完成する」と話した。 

 サマースクール講師は、高良教授のゼミの学生3人が務め、うち2人は2年連続で講師役を引き受けた。開講式のあとには、すぐにテストが実施された。(末吉雅枝通信員)
記事引用は沖縄タイムスより (同じウィンドウで開きます)

伊是名島はトライアスロンでも知られ、特産のモズクで「モズクようかん」を作るなど特産品開発にも力をいれています。この特産品の売り上げの一部を、伊是名村の子どもたちの教育支援にあて、サマースクールの講師費用にも充てられています。


伊是名島は琉球王国、第2尚氏の尚円王の出身地。古琉球の時代には首里王府の直轄地でした。現在は行政上、島尻郡。
国頭郡にある今帰仁城跡から間近に見える島なのに、島尻郡と南部の行政区域になっています。
古琉球時代の名残りですね。

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今帰仁城跡から伊是名島が見える
ラベル:伊是名島
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2011年08月22日

猛暑、塩と黒糖売れてます

全国的に猛暑が続いているようです。沖縄の塩と黒糖が県外むけに売れています。

県内業者が製造・販売する塩や黒糖関連商品の県外向け販売が伸びている。熱中症予防に不可欠なミネラルが豊富な塩や黒糖を摂取する沖縄の暑さ対策がテレビなどで紹介されたことに加え、猛暑と震災後の節電意識の高まりが売り上げを後押ししている。

 県産品卸・販売の沖縄物産企業連合(山城加寿社長)は塩黒糖の売り上げが3〜8月の前年同期比で25%増の220万円と伸びた。5月に発売した石垣島海塩の清涼飲料水は、同社運営の物産店「沖縄宝島」で目標を30%上回る9万6千本を販売。担当者は「熱中症で倒れる人も増え、予防用に購入する人が増えている」と話す。
沖縄タイムスより引用


今帰仁城跡のガイド控え室には塩黒糖が置かれています。炎天下、お客様をご案内してくると、くらくらするほどの暑さ。水分補給と塩黒糖は欠かせません。お客様も暑いはずですが、なぜか、暑い日には、熱心にガイドの話しを聞いてくださるお客様がおおいのです。
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ガイド愛用の塩黒糖
ラベル:塩黒糖
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2011年08月04日

これは珍しい!雄花が2つのソテツ

粟国島で雄花が2つあるソテツが見つかった。記事を読んで思わず写真をのぞきこんでしまった。

 粟国村の伊佐康男さん(70)=農業=が、このほど浜区で、自生するソテツでは珍しい二つの雄花をもったソテツを見つけた。

 伊佐さんは「幼いころからたくさんのソテツを見てきた。こういったソテツは珍しく、びっくりした。80歳を超えるお年寄りにも見せたがやはり驚いていた」と話す。 

粟国島は「ソテツの島」といわれるほどソテツが多く自生。昔から飢饉(ききん)を乗り切るための大切な糧として大事にされてきた。現在でも「ソテツみそ」として島の特産品になっている。(豊里博輝通信員)
引用は沖縄タイムスの記事から 雄花2つのソテツの写真も見れます。

粟国島は東シナ海に浮かぶ人口約800人の小さな島。那覇の泊港(とまりこう)からフェリーで2時間。行政区画は島尻郡粟国村。粟国島粟国村の公式サイト

ソテツを大切にしてきたというのがうなずけます。飢饉が多かっただろうことが想像できるからです。粟国島に旅行できたら、特産の「ソテツみそ」を賞味したいものです。

下の写真は今帰仁城跡のソテツ。まるいほうは雌花。

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ソテツの雄花


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ソテツの雌花

ラベル:ソテツ
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2011年08月01日

安田(あだ)のシヌグに400人が参加

安田(あだ)のシヌグは国頭郡安田でおこなわれる祭祀。集落の無病息災や五穀豊穣を祈願する祭り。およそ400年前から続くといわれる。琉球らしい祭祀で、人口200人の安田集落に400人の参加者や見学者が訪れる。

祭祀の中心となる、集落内の神アサギは、国頭村で唯一茅葺き屋根のアサギ。

【国頭】国の重要無形民俗文化財に指定されている「安田のシヌグ」が31日、国頭村安田であった。2年に1度の「ウフシヌグ(大シヌグ)」に当たり、一般も含め約400人が参加、無病息災や豊年を祈願した。 

ことしは「安田古文化財保存会」の発足35周年記念式典も開かれ、「安田のシヌグ」について説明する記念碑の除幕式と功労者16人を表彰した。 

風習にのっとった「ヤマヌブイ」では男たちがササ、メーバー、ヤマナスと呼ばれる三方の山に入り、草やツルなどを身にまとい、「エーヘーホーイ」と掛け声を上げ集落へ向け行進。集落で待ち受けた女たちに、「スクナーレー」と唱え、枝を振り掛けて悪霊を払った。その後、海山の神に五穀豊穣(ほうじょう)と豊漁を祈願した後、みんなでカチャーシーを踊った。
引用:沖縄タイムス

安田のシヌグ 集落の安寧や豊年、無病息災を祈願する祭祀(さいし)で、毎年旧暦7月の初亥の日から2日間の日程で開かれる。 

男たちが山に入り、「一日神」となり無病息災などを願う「山ヌブイ(山登り)」を行うウフシヌグ(大シヌグ)と「ヤマシシトエー(イノシシ捕り)」や「ユートエー(魚捕り)」で豊年などを願うシヌグンクヮー(シヌグ小)を1年交互に行う。1978年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

引用:沖縄タイムス


参考:今帰仁村歴史文化センター

今帰仁城跡周辺には、シニグンニという石積み遺構があります。シニグの根という意味をもつようです。かつては、シニグ(シヌグ)の祭祀がおこなわれたと考えられますが、詳しいことはわかっていません。
ラベル:安田のシヌグ
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2011年07月28日

硫黄鳥島出身者の怒り、射爆場許さぬ

硫黄鳥島出身者が怒りと不安をあらわにしている。硫黄鳥島は1979年にも、伊江島射爆場の移転先にあげられている。今回の移転問題も30年後に再浮上したものだ。驚きと不安、怒りを隠せないのが、鳥島郷友七嶽(ななたき)会の東江芳隆さんだ。

「ふるさとに爆弾を打ち込まないで」―。北沢俊美防衛相が今年5月、鳥島射爆撃場を硫黄鳥島に移転する意向を示して以来、県最北端の硫黄鳥島出身者が怒りと不安を募らせている。島は硫黄の産地で、大航海時代の琉球王府を支えた。復帰前は小中学校もあり、出身者にとってかけがえのない土地だ。射爆撃場の移転の浮上は32年前に続き二度目。鳥島郷友七嶽(ななたき)会の東江芳隆会長(86)は「琉球に恵みを与えた島に破壊行為は許されない」と再び立ち上がった。

硫黄鳥島は古琉球時代から、硫黄の産地で、中国(明)に朝貢する硫黄を採取した島。七つの御嶽(うたき)があり、ノロによる祈願がおこなわれていた。

復帰前には小中学校もあり島民が生活していた島だから、銃弾を打ち込まれるのを見るにしのびないのは当然のこと。火山の噴火により島民は久米島に全員が移住したが、ふるさとが射爆場になるのを賛成する人はいない。

 「島に害を与える人は早世など災いが降り掛かる」―。東江さんは両親からこう聞かされて育った。「島を爆撃する人はまさに害をなす人だろう」と思う。

 戦時中までは700〜800人が居住。火山噴火の恐れから59年までに全島民が久米島や本島に避難したが、かつて暮らした人の魂は今も島にある。墓や七つの御嶽があることから郷友会の名前に「七嶽」を冠した。

 東江さんは防衛相に宛てた要請文をこう結んだ。

 「東江は去った沖縄戦で海軍兵士として参加いたしました。爆弾や砲弾では平和はありませんでした。平和こそ人類最大の宝であります」

引用記事は沖縄タイムスホームページより


沖縄タイムス | 「古里の島壊す射爆場許さぬ」 沖縄タイムス | 「古里の島壊す射爆場許さぬ」


硫黄鳥島をウィキペディアで見る

 14世紀に始まった琉球と中国(明)との朝貢貿易は17世紀に明が滅ぶまで続き、朝貢品として硫黄と馬が献上されました。朝貢品の目玉商品が硫黄と馬。目玉商品の産地として硫黄鳥島は大切な島であったわけです。文化財として、この島は現状保存すべき島といえるのではないでしょうか。
ラベル:硫黄鳥島
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2011年07月21日

熱中症予防に塩黒糖、今帰仁村の黒糖製造会社から岩手へ。

熱中症予防に塩黒糖。岩手日報が沖縄今帰仁村の塩黒糖を紹介。

暑さが続く中、南国の知恵がアスリートの熱中症予防や体調管理に役立ちそうだ。紫波町体協の高橋一男トレーナーは、運動中に発汗で失われるミネラルと塩分の補給に「塩黒糖」を取り入れている。一口サイズで手軽に摂取できるのが魅力。沖縄県今帰仁(なきじん)村の黒糖製造会社に依頼し、スポーツ現場で扱いやすいオリジナルブレンドの商品を製造してもらっている。 
 黒糖の活用は昨年の沖縄インターハイで学んだ。沼宮内高ホッケー部に同行した高橋トレーナーは、1年の平均気温が20度を超える沖縄の暑さ対策を調査。「地元の医師や野球スポ少の指導者などが口をそろえたのが黒糖だった」−。天然のサトウキビで造られる黒糖はカルシウム、鉄、カリウムなどを豊富に含む。
岩手日報http://www.iwate-np.co.jp/sports/2011sports/m07/spo1107213.htmlより一部記事を引用させていただきました。

紹介された塩黒糖は、今帰仁城跡のある今帰仁村の黒糖製造会社で作ったもの。私はじめて知りました。さっそく食べてみましょうか。
塩黒糖の紹介ページhttp://nakijin-kokutouya.jp/?pid=30605101
ラベル:塩黒糖
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2011年07月19日

枯れたデイゴがシーサーによみがえる

デイゴの枯死が沖縄全体にひろがっています。原因はデイゴヒメコバチによる食害です。
枯れたデイゴをシーサーに再生させた記事がありましたので、ご紹介。

石垣島では数年前からヒメコバチにより大半のデイゴが枯れ、同校でも深刻な被害が出た。枯れた木の処分費の工面に困っていた点から、むら工芸がデイゴ再生に取り組む「NPO花と緑の石垣島」(前津栄信代表)を通し、シーサー制作と贈呈を申し出た。シーサーは高さ約1メートル20センチ、重量約100キロ。チェーンソーで木材を削り、造形する「チェーンソーカービング」により、2日間かけて制作された。


記事の学校は石垣島の小学校です。とてもよいアイデアですね。普通は切り刻まれて廃棄されるところです。
記事の引用は沖縄タイムスホームページhttp://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-07-18_20685/より


今帰仁城跡のデイゴも写真のように、2010年8月に枯れました。城内大庭と御内原のデイゴ計3本は枯死。外郭のデイゴが生き残っていますが、どうなるでしょうか?

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害虫のデイゴヒメコバチは外来害虫で、葉や幹のなかに入り込んで食い荒らします。害虫対策はいまのところ、ほとんどの自治体で進んでいません。県木デイゴの将来はどうなるのでしょう。
ラベル:デイゴ
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2011年07月18日

江戸上りの路地楽を再現

江戸上りとは、江戸の徳川将軍のところまで、琉球の使節団を派遣したことをいいます。琉球の側からいうと江戸立ちといいます。
琉球王国が島津氏によって征服された後、定められた使節団を派遣で、1634年から1850年の間に18回おこなわれた、とされています。

その際、楽団が同行しますが、これを江戸上りの路地楽といいます。

 同路次楽は、1634年から1850年まで、琉球王府から江戸幕府へ派遣された使者らの行列「江戸上り」の際、唐装束を身に着け、楽器を奏でた道中楽。 
その中で最も盛大とされ、福岡藩の画師とされる石里洞秀作「琉球入朝図」絵巻をもとに、唐装束は高嶺さんが実際に中国へ足を運び研究。那覇市の服飾デザイナー小橋川ひろみさんと共に鮮やかな朱色の内掛けや帽子などのデザインを決めた。 
音楽は伝承、採譜された路次楽の音階を基に中国音階などを駆使して再現。7種類の楽器と5種類の旗などの道具も、中国へ発注したり、県内で独自に製作したという。

引用は沖縄タイムスのホームページhttp://www.okinawatimes.co.jp/article/20110715_20558/ から、再現写真もあります。

 再現された、路地楽衣装は華やかです。江戸時代、このような衣装と異国の音楽に、沿道の人々は目を見張ったに違いありません。一方、往復に1年以上かかる長旅は、琉球王国にそれなりの負担をしいられたものであったでしょう。
 
楽士、料理人などさまざまな分野の役人が同行するため、日本との交流をとおして刺激を受け、琉球独自の芸能や料理が生まれたといいます。こんにち伝えられている組踊りや琉球料理などこの時期に生まれたものと考えられます。
 
1832年の琉球施設団の写真をウィキペディアで見る。

今帰仁城跡には、この江戸上りをした北山監守10世の向宣謨(しょうせんも、向は尚の字ではない)が建てさせた石灯籠があります。石灯籠は沖縄の石ではなく、桜島の溶岩の石といわれています。帰り道に石を持ち帰って、今帰仁城跡に建てさせたものと思われます。石灯籠は火の神の祠の前に建てられていますが、日本的な石灯籠を不思議に思う方はほとんどおられません。今帰仁城跡に江戸上りに関係するこのようなものが残っているとは、まさかの驚き!なのですね。
ラベル:江戸上り
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2011年07月14日

ジュゴンの食み跡を発見、名護市大浦湾奥で

ジュゴンの食み跡が名護市にある大浦湾奥で見つかりました。大浦湾にはジュゴンがいることがわかっていますが、大浦湾の奥で食み跡が発見されたのは初めて。

 【名護】大浦湾の生物を調査しているダイビングチーム・すなっくスナフキンが5日、名護市瀬嵩の南600メートル沖で、ジュゴンが海草を食べた跡「食み跡」を発見した。すなっくスナフキン代表の西平伸さんは「食み跡は湾の入り口にある名護市安部、辺野古沖などではよく見られるが、湾の奥で見つかったのは初めてではないか」と話している。
記事は琉球新報ホームページより一部転載 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-177952-storytopic-98.html

ジュゴンは今帰仁城跡の近くにある古宇利島でも発見されています。今帰仁城跡からジュゴンの骨やジュゴンの骨で作った「サイコロ」が発掘されています。14世紀にジュゴンが捕獲されていたようです。おそらく城主に献上され、城内で肉を食べた後、骨を細工してサイコロを作ったのでしょう。作りかけのものまであるのですから、いくつも作ろうとしたのかも。

ジュゴンは成長が遅いため、骨が緻密なので、細工に向いているようです。普通の骨ならスカスカになってしまうところですが、角(ツノ)のようになめらかです。サイコロの目の作り方は、現在のものとまったく同じです。今帰仁城跡に隣接する今帰仁村歴史文化センターに展示されています。
ラベル:ジュゴン
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2011年07月12日

硫黄鳥島に米軍の射爆場を移転!?

硫黄鳥島に米軍の射爆場を移転するという案が浮上している。地元久米島町では反対決議をおこなった。

【久米島】防衛省が久米島町の鳥島射爆撃場で行われている米軍実弾射撃訓練を県最北端の硫黄鳥島(同町)に移転することを検討している問題で、地元関係者から怒りの声が相次いでいる。町議会は25日、全員協議会を開き、26日の臨時会で抗議決議を採択する方針を確認。町民や同島関係者からは「また久米島か」「故郷を傷つけさせない」などと憤りの声が上がった。 
 同射爆撃場をめぐり県や町は早期返還を求めているが実現のめどは立っていない。訓練の代替地として今回、硫黄鳥島が浮上した。

2011年5月26日の沖縄タイムスの記事ですが、急に、硫黄鳥島に米軍の射爆場を移転するという一方的な案に地元久米島町の人々は怒りに燃えています。

もともと、米軍の射爆場は久米島町の鳥島という島にあり、演習がおこなわれてきたもの。なぜ、硫黄鳥島へ移転するのか、まったくわかりません。無人島だからといって、勝手に使われては誰だって怒るものです。

関連記事:http://gusuku365.seesaa.net/article/214098948.html

関連記事にもあるように、硫黄鳥島が久米島町なのは、硫黄鳥島の住民が久米島に全員移転したため。活火山が噴火活動したさい移転し、現在は無人島。
古琉球の時代には、硫黄の採掘をおこない、明に朝貢した。今帰仁城(北山)からも18回朝貢している。
ラベル:硫黄鳥島
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