2015年08月22日

中学2年生女子のグスクレポートが早くて視点がすばらしい

グスクレポート海道新聞


攻めにくい城は住みにくい?(改訂版では?が付く)
2つの時代が共存する空間

見出しにすぐ目が留まります。

今帰仁グスクは難攻不落。しかし、井戸が掘れませんから、深い谷へ下りて水を調達しなければなりません。

主郭には、14世紀と16世紀の遺構が一つの平面に並んでいます。普段なにげなく見ている場所ですが、確かに時代が違う遺構が共存しているのです。


この「世界遺産の歩き方」は、ご案内した翌日にはもう出来あがっていました。親子3名の方と今帰仁グスク内を案内して歩きました。暑い夏の日でしたが、お客様には一つの目的があり、主にお父さんが質問、中学生は黙って聴いていました。

出来上がったのがこの「世界遺産の歩き方」です。帰りの車中で、親子で検討したそうです。もちろん、文章を書いたのは中学2年生です。

案内するガイドのほうが大いに勉強になった新聞でした。


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2015年04月20日

宝剣千代金丸が今帰仁城へ来た!

千代金丸


北山王攀安知(はんあんち)は己の武勇にものを言わせ富を集めていましたが、国頭・名護・羽地の諸按司たちは不満を募らせていました。やがて、佐敷の尚巴志が台頭。

北山王攀安知


1416年、尚巴志の連合軍と攀安知は合戦を交えます。しかし、屈指の堅城で攻めあぐんでいたため、にらみ合いとなりました。そこで尚巴志は城中の大将で欲深い本部大原(もとぶてーはら)にワイロを贈り謀反を企てるよう誘いました。

翌日、本部大原は攀安知に「攻撃に出て、王は表、私は裏の敵を追い散らしましょう」と誘い、これを計略とは知らず攀安知は尚巴志の軍勢を深追いします。やがて、城中から火の手が上がるのを見てあわてて引き返すと本部大原が城門で「わが手に討たれよ」とさけび一騎打ちとなりました。

カナヒヤブの霊石


怒り狂った攀安知は先祖伝来の宝刀「千代金丸」で本部大原を斬り殺し、もはやこれまでと城の守護神カナヒヤブの霊石を切りつけ返す刀で切腹をしようとしました。しかし、これが切れなかったため志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で切腹して果てました。後に千代金丸は志慶真川から拾われ、尚家に献上、天下の至宝として大切に保管されました。


(今帰仁村文化財ガイドブック「今帰仁城跡」より転載させて頂きました。
今帰仁村歴史文化センターで公開されている千代金丸はレプリカですが、一見の価値ありです。)


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タグ:千代金丸
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2014年11月24日

御嶽(うたき)が立ち入り禁止?!

立ち入り禁止になった御嶽(うたき)


御嶽(うたき)が立ち入り禁止になりました。もちろん、拝みをする方は入れます。

なぜ、こうなったのでしょう?写真の大きな石をご覧ください。大きな石の上から、小石が取り除かれてすっきりしています。小石は誰かが乗せたのです。本来は大きな石だけなのですが、小石を乗せたくなる人がいるのでしょう。それで、祈りする以外には、立ち入り禁止というわけです。

以前、はえていた木は、倒れそうで危険なので伐採されました。明るすぎて、ちょっと残念。御嶽の荘厳さが、なくなりましたね。


ブログ内の関連記事:今帰仁グスクの海神祭を再現してみました。第2日目 城大折目(グスクウイミ): ガイドと歩く今帰仁城跡
セジとは?: ガイドと歩く今帰仁城跡



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2014年08月13日

今帰仁グスクの海神祭を再現してみました。第2日目 城大折目(グスクウイミ)

城内上の御嶽、テンチジ・アマチジで祈願する今帰仁ノロ
城内上の御嶽、テンチジ・アマチジで祈願する今帰仁ノロ

今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)第2日目を再現してみました。今帰仁グスクでの海神祭はすでに絶えており、今は見ることはできません。

第2日目はグスクウイミとも呼ばれ、旧盆が終わってから、最初の亥(い)の日におこなわれます。第1日目は御舟漕(ウーニフジ)と呼ばれる舟漕ぎの儀礼で、航海安全を中心とする祈願です。

第2日目のグスク内での祈願は海神祭の中心であり、今帰仁ノロはグスク内の拝所や御嶽を回って祈りをします。その後、シバンティナ浜という海岸へ下り、神々を送る祈りをします。

第1日目にすでに神々を迎えています。迎えた場所はハンタ原ウーニーで、この場所はシバンティナ浜が望める位置にあるので、ここで神々を迎えているようです。ハンタ原ウーニーは、グスクの登城道であるハンタ道近くにあります。

以下は会誌「今帰仁グスク」からの引用です。


第2日目の海神祭の儀式

ユウウスイ神アサギ跡から御願(ウガン)は行われる。前日と同時刻で、今帰仁ノロ・区長・書記と、この日は他に志慶真乙樽の神人が参加。

アサギ跡の香炉での祈願から海神祭の2日目が始まる
アサギ跡の香炉での祈願から海神祭の2日目が始まる

アサギ跡中央にある黒褐色の香炉の前に茣蓙(ござ)が敷かれ、花米・供物・酒・五水を添えて、今帰仁ノロは白神衣装、白鉢巻姿になり、線香二平(ニヒラ)に火をつけ香炉の上にのせ祈願する。方向はテンチジ・アマチジ(城内上の御嶽)を向いていた。


カラウカーと呼ばれる拝所で今帰仁ノロが祈願する
カラウカーと呼ばれる拝所で今帰仁ノロが祈願する

祈願後、今帰仁ノロは櫂(かい)にたとえた竹杖を持って、一人カラウカーに行き、立ったまま竹杖を胸に添えて合掌して竹杖を3回左廻りにして唱えて終える。


具志川御殿火の神の祠、今帰仁里主所火の神の祠とも呼ばれる
具志川御殿火の神の祠、今帰仁里主所火の神の祠とも呼ばれる

その後、主郭にある具志川御殿火の神祠に移動して、戸を開いて前に立ち「カラウカー」と同じ動作の祈願を行う。


ソイツギでの祈願をする今帰仁ノロ
ソイツギでの祈願をする今帰仁ノロ

テンチジ・アマチジソイツギと移動し、同様の祈願と唱をして再びアサギ跡に戻ってくると、城内(グスクウチ)の儀礼が終了する。


その後、城(グスク)を出て車でシバンティナ浜へ行く。波打ち際にて櫂(エーク、カイ)の竹を砂浜に突き立て、その前に供物・酒・五水を添えて火をつけない線香を二平置き、伊平屋・伊是名の方へ向かって神々を送る祈りをする。海水に入って手足を清め、海水を手に取って頭につける(塩撫で、ウスナデー)。そして海神祭は終了する。
書記が今帰仁ノロ・区長・志慶真乙樽神人達(カミングヮ)へ、パイ餅と呼ばれるものを配り、2日目の行事は終わる。


引用は「(続編)御嶽の構造とグスク」 長浜眞詳(今帰仁グスクを学ぶ会 会員) 今帰仁グスク3号 より。

引用している長浜眞詳氏の記事は、2007年8月に今帰仁ノロに動向する許可を得て、同行取材した記録です。
今帰仁ノロの画像は2007年に記事の投稿者が撮影しました。
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2014年08月11日

今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)を再現してみました

今帰仁グスクの海神祭1日目2002年、案内板より


今帰仁グスクの海神祭(うんじゃみ)は、旧盆が終わって初めの亥の日をはさんでおこなわれて来ました。残念ながら、今は見ることができませんが、再現してみましょう。

海神祭とは、海の神を招き祈りを捧げる1年で一番大事な祭祀です。航海安全、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄を祈願します。かつては、ノロをはじめ神人(かみんちゅ)が20人ほどで、盛大におこなわれたと記録されています。

筆者の画像の記録では2007年頃に、今帰仁ノロがひとりで海神祭をおこなったのが最後だったかもしれません。

第1日目
ウーニーでの祈願


ハンタ原ウーニーとレコーラウーニーで祈願する。ウーニーとは舟のこと。


ハンタ原ウーニーは、自然石を舟に見立てたもの。今帰仁ウーニーと本部ウーニーの2つがある。

本部ウーニー

今帰仁ウーニー



今帰仁ウーニーの特徴は、石の上に細長く舟方のような溝があり、本部ウーニーは溝の上部が円錐形。この2つのウーニーから海が見え、ウーニーに向かうと、シバンティナ浜の方向を向いている。この石のウーニーの上で線香を焚いて祈願する。
祈願を終えると、今帰仁グスクへと向かう。


レコーラウーニーは、今帰仁グスク外郭にある2つの土盛り。長いほうが本部ウーニー、もう一つが今帰仁ウーニー。

IMG_7721-480.jpg


レコーラウーニー祈願
今帰仁ウーニー・本部ウーニーの舟形マウンドに、櫂(かい)に例えた1mくらいの竹を各ウーニーの縁へ3本ずつ添える。この櫂に例えた竹は、祈願後、杖の代わりとして持ち、平郎門、各御嶽で櫂を漕ぐ仕草をするために持ち続ける。海神祭の終了後には、火の神壇の横へ立て置くか、縁側の軒の上にしばらく置いておくと言われた。

祈願では、舟形の中腹に花米・供物や酒・五水をお供えして、今帰仁ウーニー・本部ウーニーと順に航海安全、無病息災、五穀豊穣、子孫繁栄の祈願を行い、今帰仁ノロ1人が竹杖を持ってグスクの平郎門へ向かう。平郎門の前に立ち、竹(櫂)を胸に添え、合掌してお祈りし、その竹を左廻り(時計の逆廻り)に地面に3回円を描くようにまわし、「ウークイ、ウークイ、ウークイ」を唱える。再びレコーラウーニーの方へと戻る。これで初日戌(いぬ)の日の行事は終わる。


参考・引用は「(続編)御嶽の構造とグスク」長浜眞詳(今帰仁グスクを学ぶ会 会員) 今帰仁グスク3号 より



今帰仁グスクを学ぶ会「今帰仁グスク」今帰仁グスクの海神祭にも投稿しています。


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 大庭に人知れず、置かれている一つの香炉があります
ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスクの祭祀をおこなった今帰仁ノロと供のかねノロ



琉球古道---歴史と神話の島・沖縄

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2014年07月21日

晴れた日に見える伊是名・伊平屋島は島尻(しまじり)郡つまり南部??

今帰仁グスクから伊是名・伊平屋島を望む
今帰仁グスクから伊是名・伊平屋島を望む。画像をクリックすると拡大します。

よく晴れた日は、今帰仁グスクから島々が見えます。伊是名島と伊平屋島です。この2つの島は近くにあるのに、島尻郡(しまじりぐん)つまり南部の住所なのです。今帰仁グスクは国頭郡(くにがみぐん)で北部です。

googleの地図でご覧いただくとわかります。伊是名島の上に沖縄県の文字が乗っていますが、拡大すると伊是名島が見えます。


伊是名村のホームページには、廃藩置県のときに那覇役所に併合、編入された、と記されています。
伊是名島のごあんない【島の魅力】 | 伊是名村役場

さらに歴史をさかのぼれば、伊是名島は第二尚氏の始祖である尚円王の出身地です。ですから、首里王府(首里城)が直接管轄した島となったのです。

こうして、現代沖縄となった今でも、伊是名島は島尻郡のままなのです。このあたりが、琉球沖縄の面白さでもあり、失われつつある琉球を探し出すのも興味深いです。


今帰仁グスクと首里との関わりは、密接なものがあります。山北王(さんほくおう)は中山(ちゅうざん)に滅ばされますが、15世紀初期に、首里から監守とよばれる管理人が派遣されます。それ以降、今帰仁グスクは首里の管理下に入り、監守が城主として君臨するのです。琉球王国の北の都として、運天港を近くに持つ北の玄関口として、今帰仁グスクは重要視されたわけです。

では、伊平屋島のほうは誰の出身地でしょうか?第一尚氏の始祖 尚巴志(しょうはし)王のおじいさんの出身地です。伊是名島と同様、伊平屋島も首里王府が直轄地として管理した島です。

ガイドの公式ホームページ「今帰仁グスク」にも同様の記事を投稿しています。
近くに見える伊是名・伊平屋島が島尻郡(南部)? - 今帰仁城跡と周辺遺跡


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 薩摩入り後も監守は今帰仁グスク内に住んでいた
ガイドと歩く今帰仁城跡: 監守とその一族が移り住んだ御殿(うどぅん)屋敷跡と井戸(クビリガー)



久高オデッセイ―遙かなる記録の旅

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2014年07月06日

今帰仁グスクから与論島が見えた一日

今帰仁グスクから東シナ海を望む


今帰仁グスクから与論島が、しばらくぶりで見えました。見えるほど近い島ですから、今帰仁グスクと関わりがありそうです。

調べてみると、やはりありました。
伝承ですが、15世紀初め、当時今帰仁グスクの城主だった山北王怕尼芝(はにし)の二男(王舅:おーしゃん)が、与論島に渡り世の主となり、与論グスクを築いた。

これも伝承ですが、尚真王の次男尚朝栄が、世の主として与論島へ渡りグスクを築いた。

山北(今帰仁グスク)は、1416年に中山(尚氏、首里)に滅ぼされるので、与論島は首里の管轄になったと思われます。


実際に、与論島の人々はいくつかの系統に分かれるようです。
・三山の時代以前から島にいた人々(アマンチュ系)   
・北山の時代に島にやってきた一族(北山系)   
・三山統一後、首里王府から派遣された一族(中山系)   
・1611年以降、薩摩役人などの系統(薩摩系)   
・その他

この系統をみると、やはり与論島は、山北(今帰仁グスク)と首里(琉球)に大きく関わりがありそうです。

(この記事はホームページ「今帰仁グスク」にも投稿しました。)


参考資料:与論島と北山(琉球)



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2014年06月29日

梅雨が明けた今帰仁グスク 志慶真川の水音も大きく聞こえました

志慶真川の谷と志慶真城郭
志慶真川の谷と志慶真城郭

梅雨明け後の今帰仁グスクは、志慶真川(しげまがわ)の水音が大きく聞こえ、数日前まで降っていた雨が思い出されます。

志慶真川は、今帰仁グスクの飲料水となり、下流の水田に水を供給しました。グスク内から炭化米が発掘されているので、米を主食としていたことがわかります。(米を主食としたのはグスク内の人々に限られます。集落からは麦や雑穀が主に発掘されています。)

さらに、志慶真川の谷は30度の急勾配ですから、そのおかげで今帰仁グスクが天然の要塞となったのです。

この志慶真川の谷と、志慶真城郭と呼ばれる武士たちの住んでいた郭がよく見えるスポットがあります。御内原(うーちばる)という郭におススメスポットの表示板があります。


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 難攻不落といわれた今帰仁グスクが、中山の勢力に滅ぼされた理由は?



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2014年06月22日

梅雨明けがもうすぐ、今帰仁グスクの城壁が青空に映えています

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中山の軍勢を阻んだ大隅の城壁。

梅雨明けも近い今帰仁グスクは、今日、夏の太陽に照らされて、城壁が青空に映えました。見学のお客様も大勢訪れ、日傘をさしながらグスク内を回りました。
ガイドは日陰を選んでご案内しますが、どうしても日陰の出来ない場所があります。

これからの季節、沖縄は帽子、日傘、薄い長袖などが必須で、飲み物を携帯するとよいでしょう。
暑いけれど、南国沖縄らしい季節です。熱中症や脱水にご注意を。

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撮影スポットには今帰仁城跡の看板と三脚もあります。

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外郭の城壁

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外郭の城壁は低いけれど曲がりくねっていて敵を阻みます。


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 難攻不落といわれた今帰仁グスクが、中山の勢力に滅ぼされた理由は?



三山とグスク―グスクの興亡と三山時代

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2014年05月26日

難攻不落といわれた今帰仁グスクが、中山の勢力に滅ぼされた理由は?

今帰仁グスクの城壁、鉄壁の守りを誇った


難攻不落といわれた今帰仁グスクが、中山の勢力に滅ぼされた理由は?誰でも知りたくなるのですが、「中山世鑑」に今帰仁グスクの滅亡が詳細に描かれています。



中山世鑑(ちゅうざんせいかん)は羽地朝秀(はねじちょうしゅう)によって書かれた琉球最初の歴史書。(1650年)
アマミク神が琉球を創造したことから始まり、尚巴志王が英雄として描かれ、碑文や神歌「おもろ」にも触れられていて、琉球人の考えや想いが垣間見える。しかし、神話伝承なども多く、正確な歴史の事実とは異なる。




以下は中山と今帰仁グスク(北山)の攻防の要点


中山の軍勢は3000人で、北部の按司たちは中山に味方していたという。いっぽう、迎え撃つ北山は少数ながら、一騎当千のつわものぞろい。昼夜3日に及ぶ攻撃でも衰えず、攻め手のほうが疲弊していった。

そこで、今帰仁グスクの地勢をよく知っている羽地(はねじ)按司が、「南西の方角は険しいので守備兵が手薄だから精鋭20人を忍び込ませ隙をみて火を放ちときの声を揚げさせよ、それを合図に攻め込むのだ。」
(羽地按司は現名護市羽地地方の領主)
思惑どおり、険しい南西側は守備兵がいなかったので、精鋭部隊は忍び込み火を放った。

こうして、中山の全軍が攻め込んだので北山の兵は四散し、北山王は「イベも、イベにおわす神も供に冥土に旅立とう」と切腹し、千代金丸という刀でイベの霊石を切り裂いて、刀は志慶真川に投げ込んだ。



イベとは、聖域である御嶽(うたき)の中心で、神が天下るところ。石や古木がある場合もあります。今帰仁グスクの御嶽のイベには大石がありますが、北山王が切り裂いた霊石は今は存在しません。昭和のいつごろか失われたそうです。

滅んだ北山王が守り神として奉った御嶽



ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 志慶真乙樽の歌碑と北山騒動



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