2014年05月11日

梅雨の晴れ間のひとこま

大隅の城壁

沖縄はすでに梅雨入りしていますが、天気予報とは違って、今日は梅雨の晴れ間でした。上の写真は外郭から高さ8メートルの大隅の城壁を見たところ。


グスク時代の道
グスク時代の道。

御内原(うーちばる)から東シナ海を見る
御内原(うーちばる)から東シナ海を見る。

晴れ間の朝の毛づくろい
グスクの猫は晴れ間に毛づくろい。


今帰仁城跡の四季

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2014年04月23日

なぜ、今帰仁は「なきじん」と読むのですか?

IMG_0578-420.jpg


今帰仁を「なきじん」と読むのは至難の業です。「今帰仁」を「なきじん」と読むようになった定説は、いまだにありません。

毎日のように、お客様から質問がありますので、「今帰仁・なきじん」の由来をおさらいしておきましょう。



1.最古の琉球地図は海東諸国記という書物に見られます。朝鮮の官吏が記した書物です。
伊麻寄時利(いまきじり)とあります。「いまきじん」に通じるようです。近世には「いまきじん」と呼ばれているのです。

2・オモロという琉球古典の唱には、みやきせんとなっています。

3.首里の玉陵の碑には、ミやきせんと「ミ」がカタカナ表記です。(1501年)

4.首里王府の発行した辞令書には、ミやきせんとなっています。(1500年後半)

ここまでは、王都首里ではミやきせんと呼ばれたことがわかります。



5.辞令書(1600年代前半)は、やはりミやきせんです。しかし、1609年の薩摩入り前後から読みが変化します。

6.琉球神道記には今鬼神とあり、「いまきじん」と読むのでしょうか?「鬼」の文字は意外です。(1605年)

7−1.琉球渡海日々記は薩摩軍の琉球侵攻のときの薩摩側の記録です。今きじんとなっていて「いまきじん」と読むのでしょう。(1609年)
7−2.喜安日記は薩摩に攻められた側の琉球の僧侶が記録したもの。今帰仁とあり「いまきじん」と読むのでしょうか?(1609年)



薩摩入り後、首里王府の辞令書が変化します。
8・薩摩入り後の辞令書は、今帰仁に変化します。読みは「いまきじん」なのか「なきじん」なのか不明ですが、現在の「今帰仁」の表記は、薩摩入りの時から始まったと言えるでしょう。(1600年中頃から後半まで)

9.首里王府が編纂した琉球国由来記には、今帰仁と記されています。(1713年)

IMG_0576-420.jpg




以上今帰仁の移り変わりを見てきましたが、「今帰仁」を「なきじん」と読むようになった由来ははっきりしません。

ガイド仲間の一人が考えた説なのですが、なきじんの「な」は、「みやきせん」の「みや」が変化したものではないか?と考えます。例えば、「みゃーくにー」は「なーくにー」とも言います。

お客様からの質問が多いのですが、はっきりした回答ができないのが残念です。


参考:今帰仁城跡今帰仁村文化財ガイドブックVol.1 今帰仁村教育委員会編


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 薩摩入り後も監守は今帰仁グスク内に住んでいた
ガイドと歩く今帰仁城跡: 監守とその一族が移り住んだ御殿(うどぅん)屋敷跡と井戸(クビリガー)



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2014年04月07日

カーザフと呼ばれる郭(かく)が、おもしろい

カーザフと呼ばれる谷間


今帰仁グスクにカーザフと呼ばれる郭(かく)があります。昔は水があったとも言われる谷間です。


このカーザフを見ると、2つの事がわかります。

〇城壁が3方向につながっている
城壁が3方向につながっている

画像中央に、城壁が3方向から集中するところがあります。城壁は低いのでわかりにくいですが、カーザフの左側と、カーザフの正面、そして、復元された外郭の城壁(石が白いところ)です。

道路によって切れているように見えますが、道路の下に城壁が埋まっていて、3方向からの城壁は道路下で交差しています。

〇石切り場のような特殊な岩盤
石切り場のような特殊な岩盤

岩盤が露出しているところをよく見ると、平たい岩盤をいく層にも積み重ねたようになっています。これが、今帰仁層と呼ばれる岩盤です。

城壁を築くときに、岩盤を割って石を採るのですが、層状の岩盤なので、四角い石が採れるのです。四角い石は、城壁を積むのに具合がいいのです。

現代なら、重機のツメを引っ掛ければ、簡単にはがすことが出来ると、工事の人が話してくれました。


将来、道路下から、3方向の城壁が出てくる日が来ることでしょう。お楽しみに。


郭(かく)とは?
グスクは、普通は一の郭、二の郭などと呼ばれる、石垣で仕切られた部分で成り立っています。今帰仁グスクの場合は、郭に名前が付けられていて、外郭、大隅、大庭、御内原、主郭、そして志慶真城郭と続きます。

カーザフの郭は、最も低い位置にある谷間なので、昔は、水があったと推測することが出来ます。

今帰仁グスクの1/100模型
今帰仁グスクの1/100模型では、郭のようすがはっきりわかる。


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 水に縁のあるカーザフ
ガイドと歩く今帰仁城跡: 水に縁のあるカラウカー



グスクと按司〈上〉―日本の中世前期と琉球古代 (シリーズ沖縄史を読み解く)

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2014年03月23日

薩摩入り後も監守は今帰仁グスク内に住んでいた

IMAGE001.jpg


前回投稿したガイドと歩く今帰仁城跡: 監守とその一族が移り住んだ御殿(うどぅん)屋敷跡と井戸(クビリガー)で、監守とその一族が、今帰仁グスクを出て、移り住んだ屋敷をご紹介しました。


今回の投稿は、それとは矛盾するような内容です。

上の画像は、復元された高官の住居跡です。高官といえば、首里から派遣された監守(かんしゅ)のことで、首里の王族です。

第二監守5世、向克祉(しょうかつし)のとき、今帰仁グスクは薩摩軍の襲来によって焼き討ちにされ、向克祉は、薩摩入りの翌日死亡しました。1609年の出来事です。(向は尚の意で、しょうと読む。尚の文字は直系の1世しか使うことを許されなかったため、2世以降は向の文字を使った。)

監守6世縄祖または7世従憲は、焼かれた今帰仁グスクを出て、お膝元の今泊集落へ下りて住んでいた。それが前回投稿した御殿(うどぅん)屋敷です。

上の画像の高官の住居跡は、1600年の中頃に使われたことが、発掘調査の陶磁器の年代測定で判明しました。ですから、薩摩入りの後も、監守は今帰仁グスク内に住んでいたことになります。

復元直後の高官住居跡
復元直後の高官住居跡

琉球新報の記事、高官住居跡の発掘調査報告
琉球新報に掲載された高官住居跡の発掘調査報告 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-183547-storytopic-1.html


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 監守とその一族が移り住んだ御殿(うどぅん)屋敷跡と井戸(クビリガー)
ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスク直下のムラは、格子状集落に生まれ変わった



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2014年03月03日

香炉に上がらないで!?

屋内の丸い香炉
屋内で用いられる丸い香炉は陶器製

香炉は丸いもの、と思っていませんか?今帰仁グスクの内外で見られる香炉は、四角い形で、石製のものが普通です。

香炉は、日本では仏壇にあるので、丸い陶器製がほとんどでしょう。現代沖縄でも、仏壇や家庭の台所に置かれている香炉は、陶器製の丸いものです。

ところが、今帰仁グスク内にある香炉は、すべて四角い石製の香炉です。今帰仁グスク以外の多くの御嶽や火の神の祠に置かれている香炉は、やはり石製の四角いものです。

香炉の製造年代を調べたことはありませんが、おそらく17〜18世紀の近世期ごろには石製の香炉が使われていたのでは?と推測します。

城内上の御嶽の香炉(屋外)
城内上の御嶽の香炉

阿応理屋恵火の神の香炉(屋外)
城外にある阿応理屋恵火の神の香炉

今帰仁ノロ火の神の香炉(屋外)
城外にある今帰仁ノロ火の神の香炉、石製と陶器製の香炉が両方置かれている。

香炉の画像を捜していたところ、今帰仁ノロ火の神の香炉は、石製と陶器製の香炉が両方置かれていることに気付きました。屋内は陶器製の香炉を使うのか、と思っていたのですが、火の神の祠のような屋外にある場所にも、陶器の香炉が置かれていました。


最近聞いたことですが、ある御嶽には「香炉に上らないで」という注意書きがあるということです。香炉の上に乗る!?何故そのような行動をするのかわかりませんが、四角い石の香炉をなんと思っているのでしょう?


ガイドと歩く今帰仁城跡: 大庭に人知れず、置かれている一つの香炉があります
ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスクの祭祀をおこなった今帰仁ノロと供のかねノロ



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2014年02月24日

昔は平郎門を見上げて今帰仁グスクに入りました

平郎門、昔は見上げるようになっていた
平郎門は、昔は見上げるようになっていた。

現在の平郎門の見え方、普通に撮影したもの
現在の平郎門、普通に撮影したらこのように見えます。

平郎門は今帰仁グスクの正門です。一枚岩をのせた重厚な造りで、琉球の三大勢力、北山の門として十分な貫禄です。

ところが、今ひとつ気になることがありました。門の高さがもう少しあったら、もっと迫力のある門になっただろう。と感じることがあるのです。

実は、琉球のグスク時代には、今よりもっと威圧感があったのです。門の前の道は、今より約1m下にあったことが発掘調査で判明しています。

すると、今帰仁グスクへ入るには、正門を見上げるようにしてくぐることになります。これなら、迫力十分です。

地面すれすれにカメラを構えて、平郎門の写真を撮ってみました。琉球のグスク時代には、こんな風に門がそびえ立っていたと想像できます。

また、撤去にあたり、鳥居の脚部分の地下について、発掘調査を行いました(写真下:発掘調査の様子)。この調査によって、鳥居のあるあたり一帯は近現代になって1mほど造成されていることが分かりました。

平郎門付近、鳥居撤去時の発掘調査
平郎門付近、鳥居撤去時の発掘調査のようす。

本来、平郎門への入城は門を見上げるような形で入城したものと推定されます。考えてみれば、首里城や中城城など沖縄の有名な城の多くが入城するときには門を見上げながら歩いて行きますので、当然といえば当然なのかもしれません。
整備が進めば、平郎門の見方もまた変わってくると思います。(今帰仁村の文化財「鳥居」より)


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスクと鳥居の相性は?
ガイドと歩く今帰仁城跡: 話題のおおい平郎門のはなし



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2014年02月06日

今帰仁グスクと鳥居の相性は?

かつてあった今帰仁グスクの鳥居
かつてあった今帰仁グスクの鳥居、画像は今帰仁村の文化財「鳥居」より

今帰仁グスクにかつて鳥居があったのですが、この頃は鳥居を記憶している人も少なくなっています。

今帰仁グスクの鳥居の建立は昭和5年、高さ10メートルを超える大鳥居でした。平成15年に解体撤去されました。撤去の理由は、城として往時の景観へ復元していくためです。本来あるはずのない鳥居だから撤去されたのです。

鳥居があったころは鳥居をくぐってグスクに入っていたわけで、グスクと鳥居は現代沖縄においても、やはり違和感のある取り合わせです。

見学者「このあたりに鳥居がありましたね。」
ガイド「はい、ありましたが、取り払われました。土台は歴史文化センターに展示してあります。」
見学者「あれは日本化するためでしたね。

歴史文化センターの庭に展示されている鳥居の土台
歴史文化センターの庭に展示されている鳥居の土台

ガイドと見学のお客様の会話です。何年か前の私のブログに記録されていました。
鳥居は、沖縄を日本化するため、すなわち皇民化政策の一環で、グスク神社化政策のために建てられたのでした。

こうして、グスクが神社に変身する寸前だったのですが、大戦が始まったので、神社化は実現しなかったものの鳥居が残されたのでした。"沖縄" AND "鳥居"で検索すると、現代沖縄に鳥居がたくさん残っていることがわかります。

googleで検索した鳥居の画像
googleで検索した鳥居の画像の一部 

今帰仁グスクが世界文化遺産に登録されたのは、2000年12月です。聖地化された琉球のグスクが、琉球王国のグスクの形と宗教的かたち、すなわち琉球のノロ制度の名残りを残したまま保存されることになったのです。琉球の宗教的かたちが、御嶽(うたき)や拝所、そこを拝む老若男女の現代人です。

もちろん、ノロ制度はもはや存在しませんし、神職者のノロもほとんど存在しないのが現代沖縄の現状です。
しかし、現代沖縄の人々が、今帰仁上り(なきじんぬぶい)や個人的な拝みのために、グスクと琉球の聖地を今でも訪れるのです。

琉球王国は明国(中国)と朝貢・冊封の関係を保っていましたが、薩摩の支配を受け、琉球処分によって、日本の一部に組み込まれていきます。大戦後は米軍支配下に置かれるという複雑怪奇な歴史を余儀なくされたのでした。

支配者は変わっても、琉球の宗教のかたちは今でもほとんど変わらないのです。それに比べ日本では、過去には、国体神学によって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、寺院をはじめ田舎の道祖神まで廃棄されたようです。

こんにちでは、パワースポット現象によって神社や皇居までもが、パワーの源とされているという、摩訶不思議な流行が起こっています。

これらのことは、現代沖縄の人々のアイデンティティに関するばかりでなく、日本、琉球・沖縄の歴史を学ぶ上で興味深いと思います。

こうみんかせいさく【皇民化政策】とは。主として満州事変から太平洋戦争までの戦時中に、日本が朝鮮・台湾などの占領地や沖縄において行った強制的な日本化政策。現地の住民を教化して戦時動員体制に組み込むことを主目的とし、創氏改名やや一連の皇民化教育が行われた。
http://dictionary.goo.ne.jp/

はいぶつきしゃく【廃仏毀釈】
明治初年の神仏分離と神道国教化政策のもとでの寺院,仏像,仏具などの破壊。中国では,北魏の太武帝による446年の廃(排)仏など4回にわたって大規模な廃仏(三武一宗の法難)がなされ,日本でも,1666年(寛文6)に水戸藩と岡山藩で寺院破却が行われた。また長州藩と水戸藩の天保改革にさいして寺院整理や淫祠破却がなされたが,これは明治初年の宗教政策の源流と考えることができる。廃仏毀釈という言葉は,これらすべてを指すともいえるが,一般的には明治初年のそれのことである。http://kotobank.jp



ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスクで大勢のひとびとが拝んでいたら、「今帰仁上り」という伝統行事です
ガイドと歩く今帰仁城跡: 琉球の時代に城主が拝んだ火の神は、今も参拝者が絶えません



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2013年12月23日

ノロの唱えるミセゼル(神託)とはどんなもの?

城内上の御嶽
ノロが祈願した城内上の御嶽

今帰仁城跡には御嶽(うたき)が2つあり、かつてはノロが御嶽で祈願したことが、首里王府の編纂した書物に記されています。

ノロが唱えるミセゼル(神託)とは何でしょうか?ドラマ化された小説「テンペスト」には、最高位のノロ、聞得大君の唱えるミセゼルが登場します。
ミセゼルとは、テンペスト用語解説によると、神がかりしたノロが唱える神託とありました。

では、実際に唱えられたミセゼルは、どのような内容だったのでしょうか?

「真珠湊碑文」(まだまみなとひもん)という石碑が、首里城の首里杜館前の芝生広場にあります。

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「真珠湊碑文」
1522年、尚真王時代に真珠道および真玉橋を築造した際の記念碑で、「真珠道および真玉橋は一般交通の利便に供するほか、国土の防衛のため王命により建設された。
一旦ことある時には、首里の軍勢と南風原、島添大里、知念、佐敷の軍勢は、真玉橋を渡って下島尻の軍勢と合流し、那覇港口の南岸垣花に勢揃いして外敵の侵入に備えた。」と記されています。真珠湊碑文(まだまみなとひもん) - 首里城だより


1522年の尚真王の時代は、今帰仁グスクは首里城の管理下にあり、北山監守(かんしゅ)が今帰仁グスクの城主として君臨していた頃です。

その時代に、国土の防衛のために、真珠道および真玉橋を築造したのですから、首里王府としても一大事業だったのです。

さて、「真珠湊碑文」のミセゼルはどんなものか、期待していましたが、碑文には、
明の嘉靖元年(一五二二)壬午の年四月九日乙酉の日に聞ゑ大君(及び)君君が、降臨し給い、野祓い(落成式)の時に神託を賜り申した。真珠湊碑文: 海邦小国による大意

とあり、ミセゼルを唱えたことが記されていますが、その後は、真玉道および真玉橋造営の目的が記されています。要するに、ミセゼルの内容は、真玉道および真玉橋造営に関する内容なのであり、残念ながら特別に神がかり的な内容ではありません。

一方、今帰仁グスクでのノロの祈願の内容も、首里王府の書物に記されています。城内上の御嶽でのノロのミセゼルは以下のようです。わかりにくい言葉がありますが、およその意味は読み取れます。

首里天加那志は、首里の国王様。ガホウとは世果報(ゆがふ)のことでしょうか。世果報とはひとことで言えば、世界平和です。五穀豊穣。中国、日本。宮古、八重山は琉球の離島。航海安全の祈願がつづきます。とても現実的な祈りとなっています。

『首里天加那志美御前 百御ガホウノ 御為 御子 御スデモノ 御為 又島国之 作物ノ為 唐 大和 宮古 八重山ノ島々 浦浦ノ船々 往還 百ガホウノ アルヤニ 御守 メショワレ』(琉球国由来記より)


ブログ内の関連記事:ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスクの御嶽(うたき)には琉球国つくり神話が息づいている
ガイドと歩く今帰仁城跡: 今帰仁グスクの祭祀をおこなった今帰仁ノロと供のかねノロ



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2013年12月08日

大庭に人知れず、置かれている一つの香炉があります

神ハサギ跡の香炉
神ハサギ跡の香炉

今帰仁グスクの階段を上ると、大庭(うーみゃー)と呼ばれる広場が現れます。大庭の左側(北側)に、人知れず、香炉が一つ置かれています。これが、城内の神ハサギ跡の香炉です。

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2013年11月14日

カラウカーと呼ばれる拝所は、女官が髪を洗った所と伝えられている

カラウカーと呼ばれる拝所
カラウカーと呼ばれる拝所、窪んだ岩があり香炉が2つ置かれている。

カラウカーと呼ばれる拝所があります。昔、琉球の時代に、女官が髪を洗った所と伝えられています。


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