2007年05月12日

監守来歴碑記を読む(その8)

石ころ道の旧道
旧道、この石ころ道を監守一族も歩いたのでしょうか?

読み方
乾隆(けんりゅう)七年に至り 将に城地を以て 改めて郡民に授け 其の典礼を行わしめんとす
 
語句の解説
乾隆(けんりゅう)七年:1742年 1665年に今帰仁監守は首里に帰って、今帰仁城は無人となり、廃城になった。それ以後77年が経過している。今帰仁城は草木に覆われ荒れ果てていたと思われる。
城地を郡民に授け:今帰仁城を民間に払い下げる。首里王府は今帰仁城地を郡民に授ける決定をした。
その典礼をおこなわしめんとす:今帰仁城内でおこなわれている祭祀(拝みなどの行事)を郡民におこなわせる。

読み方
是(これ)によりて 宣謨(せんも)具疏(ぐそ)して 往事(おうじ)を禀明(りんめい)し、恭(うやうや)しく 兪充(ゆじゅう)を蒙(こうむ)り 永く城地を管し 典礼を掌(つかさど)ること 旧のごとし。

語句の解説
宣謨(せんも):尚宣謨(せんも)は監守10世にあたる。
具疏(ぐそ)して または 疏を具え:くわしく書き記す。
禀明(りんめい):申し上げる。
兪充(ゆじゅう)を蒙(こうむ)り:難解な語句です。意訳を参照してください。
監守10世の宣謨は、代々の監守一族が今帰仁城を管理してきたことを首里王府に訴え、今までどおり監守が今帰仁城を管理できるように願い出て、聞き入れられた。今帰仁城は郡民に授けられることなく、これまでと同様、監守一族の所有となった。

意訳
そこでわたくし尚宣謨が往事の事情等を奏上したところ、これまで通りわが家が城地を管理し典礼を司ることがゆるされた。(意訳の文面はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載させていただきました。)
posted by gusukutarou at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月11日

監守来歴碑記を読む(その7)

東側からみた城壁は威圧的
今帰仁グスクの城壁、やや東側からの眺め。当時の人々を威圧した?

まことに、ゆっくりですが、監守来歴碑記を読んでいます。

読み方
而して(しかして)康熙(こうき)四年 七世従憲(じゅうけん) 命を奉じて 宅を首里に移して、仍って(よって)北城の 旧跡典礼等の件を 掌る(つかさどる)

語句の解説
康熙(こうき)四年:1665年。1665年に監守は首里に帰ることになる。1609年に薩摩軍による琉球侵略がおこなわれ、今帰仁城は焼き討ちに合ったとされている。監守は城を出て、今帰仁ムラに住んだとされている。監守にとって、ムラ住まいはさぞ住みにくかっただろうと推測される。首里に帰れるように、王府に願いを出したとも考えられている。1665年にようやく、願いがかなったようだ。
七世従憲(じゅうけん):今帰仁城監守七代目
命を奉じて:首里王府の命により
宅を首里に移し:首里に引っ越した
北城:今帰仁城のこと、別名を北山城という。
旧跡典礼等の件を 掌る(つかさどる):今帰仁城での年中祭祀、宗教行事などのまつりごと。
首里に引越したけれど、年中祭祀などは今までどうりおこなった。職務は果たしたのですぞ、と言いたげですね。
posted by gusukutarou at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月07日

監守来歴碑記を読む(その6)

西側から見た城壁
今帰仁城の西側、外側の城壁が延びている。

読み方 
而よりして 世々 北城を鎮め(しずめ) 永く典法を守る。
北人 愈々(いよいよ)懼れ(おそれ) 愈々(いよいよ)服し 雍熙(ようき)の休を致す。

語句の解説
北城:北山城 今帰仁城のこと 尚真王が第三子の韶威(しょうい)を監守として遣わしてから、世々今帰仁城を沈静化し、永い間、まつりごとなどの規則を守った。
北人:北の国の人々 今帰仁城を中心とした、北山圏の人々。北山の人々は恐れて、服従した。
雍熙(ようき)の休:雍熙(ようき)とは和らぎ楽しむこと。三山の争いも終わって、監守が北の国をよく治めたので、人心が安定したということでしょうか?
posted by gusukutarou at 00:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月05日

監守来歴碑を読む(その5)

カーザフの郭から見上げた城壁
カーザフの郭から見上げた城壁、高低差がものすごい。

少しずつですが、山北今帰仁城監守来歴碑記を読んでいます。

読み方
弘治年間 尚真王は 第三子昭(韶)威(しょうい)を 遣わして 監守となす。すなわち我が元祖なり。

語句の解説
弘治年間:1526年
尚真王:尚円王の子
昭(韶)威(しょうい):尚韶威のこと。尚真王は韶威を監守として、今帰仁城に遣わした。
我が元祖:監守来歴碑記を書いた宣謨(せんも)から見て尚韶威は監守の元祖になる。
posted by gusukutarou at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月03日

監守来歴碑記(その4)

ソイツギの御嶽
ソイツギの御嶽(うたき)五穀豊穣の祈願をしたとされる。御嶽の祈願も監守が行うまつりごとのひとつだったと思われる。

読み方
ときに 尚円王 臣民の推戴(すいたい)するところとなり、位に就き まつりごとにのぞみ 大いに万世の期業を開く。

語句の解説
尚円王:金丸は有力な大臣であったが、このとき以来、尚円と名乗り王となった。今帰仁城から見える、伊是名(いぜな)島の出身。
推戴:頭(かしら)として、おしいただくこと。臣民の推戴により、王の位に就いた。となっているが、こんにちの歴史認識によれば、クーデターによる王権の交代と考えられている。
尚円王から後を第二尚氏王統という。第一尚氏王統とは血縁はないが、おなじ尚(しょう)を名乗っている。
万世の期業を開く:永遠に続く王国のもといを開いた。

読み方
また 大臣を遣わし 輸流して 監守せしむ。

語句の解説
大臣を遣わし:はじめは大臣を監守として派遣したが、のちに子息を遣わすようになる。
輸流:?(調査中)
posted by gusukutarou at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月27日

監守来歴碑記を読む(その3)

utibaru02.jpg
御内原(うーちばる)から北の海をながめる。

読み方
すなわち 次子尚忠を遣わして 監守せしめ 永く定規となす。
語句の解説
次子 尚忠:尚巴志は次男尚忠を監守として、今帰仁城に派遣した。こののち、監守制度を続けることと成った。


読み方
徳王に至り 酒色に耽り(ふけり)殺戮を好みて 国政日に壊れ 臣民皆叛して(はんして) 遂に覆宗絶祀(ふくそうぜっし)の禍(わざわい、か)を招く。
語句の解説
徳王:尚徳王のこと 尚徳王は酒色にふけり、殺戮(さつりく)を好んだ。かなりの悪政をおこなったようだ。

臣民:国王に服する民衆
覆宗絶祀(ふくそうぜっし):一族を滅ぼし、まつりごとを絶つ=国が滅びること。

国民はみな王に叛いて(そむいて)ついに国が滅びそうになった。ということでしょうか。
 

posted by gusukutarou at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

監守来歴碑記を読む(その2)

監守来歴碑記の一部読み方 
然して(しかして)、山北の諸群、地険阻にして、人亦勇猛にして、中山を離るること遠く 教化敷難し。

語句の解説
山北(さんほく)諸群:今帰仁城を中心とした各地、まだ按司(有力な武士たち)が健在だった。
地険阻、人亦勇猛:土地は険しく、ひとは勇猛とは北部のひとを悪くいったものですね。たくましいということでしょうか?
中山から遠く、教化しがたい:尚巴志が天下をとり、琉球を統一したが、首里城から遠いので、教育管理がやりにくい。

読み方 
恐らくは 険阻を恃みて(たのみて)復た(また)変乱を生ぜん。

語句の解説
おそらく、地が険しく、今帰仁城も堅固だから、それをいいことに、また首里に敵対するのではないか。
posted by gusukutarou at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月21日

監守来歴碑記を読む(その1)

山北今帰仁城監守来歴碑記
山北今帰仁城監守来歴碑記

山北今帰仁城監守来歴碑記(なきじんじょう かんしゅ らいれきひ き)の内容を読んでみましょう。独断もありますが、ご容赦ください。

山北:北の王国
今帰仁城:なきじんぐすく、または みやきせんぐすく
監守:監守は首里王府から、派遣された役人 山北今帰仁城を制覇した尚巴志(しょうはし)は第二子、尚忠(しょうちゅう)を派遣した。

読み方 
昔は球陽の諸群 四分五裂して 終に三山鼎足(ていそく)の勢いと成り、万民塗炭の憂に堪えず。
語句の解説 
球陽:琉球の別名
四分五裂:各地の按司(武力にたけた有力者)がグスクを造って勢力争いをしていた。
三山鼎足(ていそく):鼎(かなえ)は三つ足の器 
三山:山北、中山、山南の三つの王国にまとまったが、たがいに相争っていた。
塗炭の憂:炭や泥をぬるような憂い(うれい)に耐え難い。

読み方  
佐敷按司巴志 大いに義兵を興し 三山を匡合(きょうごう)して 統一の治を致す。
語句の解説
佐敷:地名、現在は南城市佐敷
巴志:後の尚巴志 このときは中山王、琉球統一をはたし琉球国王となる
義兵を興し:山北に敵対する按司をまとめ連合軍を組織した。
匡合(きょうごう):匡(きょう)は箱を表す。三山をひとつにまとめたこと。
 
(つづく)
posted by gusukutarou at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 監守来歴碑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。